松葉杖で歩く
2017年5月20日(土)|category : お知らせ
折れた右足に付ける装具が17日に仕上がり、松葉杖での歩行訓練が始まりました。
装具を作って下さった義肢装具士さんは、茶目っ気のある方で、初めて病室を訪ねて下さったときも、笑いの種を撒いて下さいました。面白い方だなと思っていたら、足を計測し型を取る際の真剣な眼差しにこれまたびっくり。それまで軽口を叩きあっていた空気感が一変、きゅっと引き締まるのを感じました。わたしの膝を手でゆっくりと何度もなぞり、骨折箇所と手術の傷跡とを鑑みながら、体重の受けをどこに付けたら痛みを避けることが出来るかを慎重に考えて下さっていたのです。
一週間後に仕上がった装具はまさにわたしの足そのものでした。
それでも膝の一部に痛みを感じると伝えると、その場で修繕して下さり、わたしは再度装具を付けてリハビリ室の全身大の鏡に向かって、松葉杖を付きつつ歩いてみました。「痛くないです」と装具士さんに伝えると、わたしの後ろで飛び上がって喜び小躍りされている様子が鏡に映っていました。おかしいんだけど、同時に涙がこぼれそうでした。
事故後、わたしが苦しんだのは骨折箇所の痛みや手術痕の痛みではなく、今回の出来事は「自業自得」なのだろうかということでした。いわゆる「ばちがあたった」と言うやつです。不慮の事故、思いがけぬ病、天災、人生にはなぜだかわからない出来事が起きることがあります。そんな時ひとは「わたしの行いが悪かったからこんなことが起きたのだろうか?」と考えがちです。何の因果でわたしは、自分で自分にこんな責め苦を課してしまったのだろうかと。「忙しそうだったから、急ぎすぎていたんじゃない、ゆっくりして下さい、」という善意の言葉さえ、ナイフのように感じてしまうほどでした。
「人生に起きることの意味なんて、即座に全て分かるわけではないし、納得できるものでもないだろうけれど、そういうものを抱えたままで生きていくのが人生なんじゃないかと、最近は考えています。たとえ、これまで予想していたのとは違う未来になったとしてもあなたは、自分を生きるという点においては「ゆるがない」だろうと私は信頼しているし、それを喜びを持って分かち合いたいという人がたくさんいるのも疑っていません。」
これは、沈んでいたわたしに友人がくれたメッセージです。
わたしは、この事故に理由付けや意味付けををするのをやめました。ただ「交通事故に遭った」それだけのことです。「自業自得」なんかじゃない。
この事故をきっかけに人生が開けるとか、そのての希望もいりません。
ただ、今はわたしの足にぴったりな装具を付けて松葉杖を付いて一歩一歩、歩くだけです。
もう間もなく退院します。