being doing having

2017年6月24日(土)|category : 畑と庭と台所

庭に立つ母

 

 

気が付けば、事故からまる2ヶ月が経過しました。

 

どんな塩梅なのかとご心配下さっている方も多いので、ご報告です。

 

骨折箇所は顔面と右鎖骨(肩)と右膝の3か所でした。顔面は治療はなしで自然治癒にお任せです。おそらくもうくっついているでしょう。今は痛くも痒くもありません。お岩さんのようだった顔もきれいになりました。右鎖骨も治療なしの自然治癒。ここは顔と違って、日常的に動かす場所なので、無理に動かし骨が妙なくっつき方をすると困るので事故後一ヶ月目くらいから、軽いリハビリ開始。そろりそろりがバシバシメニューも増えだすとあっちもこっちも痛い痛い。肩は色んな部位と連動して動くものなので、肩を一ヶ月動かさなかった間に肩ばかりかそれ以外の肘回りとか色んな筋肉だか筋だかよくわからないけど、あちこちがみんな固まっていて動かすと引き連れる。今現在、右手の稼働率は通常の3割程度。力が入らなくて、ねじれなくて、伸ばせなっくて上がらない、特に後ろには手が回せない。350のペットボトルが持てないし、人参を包丁で切るのもきつい、右手ではパンツも上げられない。出来ないことだらけで、改めて感心しました。人間の身体の骨や筋肉の連係プレーによる芸術的なまでの、身のこなしに!!まさしくアートですね。

 

そして手術して金属製のプレートとボルトを入れた右足は、膝から下の装具を付ければぴょこたんぴょこたん歩けるようになりました。松葉杖も不要です。ただ、装具は固く重く一日中しているのはしんどいので、主に外に出るときに付けています。装具を付けなければ歩けないので、家の中では車椅子生活です。足のリハビリは屈伸と筋力トレーニングをしています。体育座りをしても踵とお尻がくっつきません。間隔は20cm位かな。よって正座が出来ません、しゃがむことも出来ません。金属製のプレートとボルトが入った膝は自己主張が激しく存在感が絶大です。固くて強面です。リラックスした状態で足が真っすぐに伸びないため、寝るのがしんどいです。これがなかなかつらいです。

 

手術後や入院中は寝たきりスタートでしたから、ほんの少しの前進でとてもうれしかったのですが、装具付きとはいえ歩けるようになり、手もお箸を持てるようになり、出来ることが増えてくると、出来ることは途端に当たり前のこととなり、出来ないことの方がクローアップされのしかかって来ます。

 

久しぶりにお会いする親戚も友人も口々に「よかった、元気そうで!」って、言ってくれるけど、「何がよいのだろう」とつぶやくひねくれ者の自分がいます。だって、出来たことより出来ないことにとらわれてしまってるから、「うらめしや~」ってね。

 

そんな風に、毎日毎日足も肩も痛かったり痒かったり不具合はまだまだあり、弱音も吐きます。弱音なんか吐くもんかっていう体育会系ド根性はとうに捨ててます。どんな自分にもOKサインです。

 

 

「being doing having」 という三つの言葉があります。

それぞれ 「あり方、やり方、持っている」という意味ですが、日本社会は「doing」と「having」が価値観の基本となっています。「doing」努力して、工夫して、成績や実績を上げて、「having」得られたもので、人を評価します。そのひと自身を見るのではなく、何が出来るかを見るのです。でも、わたしは「being」が好きです。弱音を吐く自分もイライラして爆発する自分も、へこたれる自分も、歩けない自分も、どんな自分も恥じることはなく、全部OK! それらぜ~んぶひっくるめて自分だから。

 

誰もが「being」存在しているだけで価値がある。存在そのものが愛だから。

 

そして、庭は私にとって最も「being」で言う所の、ありのままの自分でいられる場所です。何にもとらわれずに、そこにただ在る(いる)、という境地にすぐ入れる。ストンとね。心地よいですよ。

 

ベニシアさんが言うように「庭は神様に一番近い場所」、だからだと思います。

きっと、庭好きなひとは大きくうなずいていることでしょう、ねっ。

 

 

そんなわけで、ひと葉の仕事復帰は未定です。

 

仕事をしないひと葉、つまり「doing」と「having」が無いわけですが、「being」存在はしておりますので、どうかそれだけでご勘弁くださいませ!(笑)